ラ・サール学園創立70周年(1950-2020)

ラ・サール学園は昭和25年4月10日に開校したことは卒業生の皆様は、学園の創立周年記念誌、同窓会誌「小松原」等でご存知のことと思うが、創立70年に当り開校の頃を振り返ってみた。

開校に至る迄の経緯は、学園の創立60周年誌に詳細が掲載されているが、その中の開校式・入学式の初代マルセル・プティ校長の式辞と井畔武明副校長の訓辞が特に有名である。又、ラ・サール高校設立にご尽力された七田八十吉神父の学園創立10周年誌の記事、1期生と同時に入学された2期の緒方清氏の開校の頃の日本の実情の良く判る記事を投稿いただいたので併せて掲載しました。

マルセル・プティ校長式辞昭和25年4月10日の開校式

マルセル・プティ校長の写真|ラ・サール学園同窓会皆さん、ラ・サール教職会員の名に於いて、またこの学校の職員の名に於いて、更に私自身として、私はこの学校のすべての生徒、御父兄方、後援者の方々、及び来賓の皆様に、私の心からなる歓迎の言葉を申し上げます。
如何なる人の生涯に於いてもその人をして先人の業蹟の主なるものを想い起さしむる顕著な事実が存するものであります。ここにラ・サール学園を開設致しますことは、私共のラ・サール会の歴史にまた新なる一章を加えることになるのであります。その浩翰にして貴重なる歴史の一巻はバプチスト・ド・ラ・サールによって書き始められたものでありまして、今や全世界に亘り遍ねく読まれているものであります。

先日私共の敬愛する重成知事は「鹿児島県においてこの新しい学校を持つことは鹿児島県民の心から感謝しているところである」と述べられました。若し日本の国民が我々の好意を喜んで下さるなら、400年前聖フランシス・ザビエルがその第一歩を印したこの同じ土地にこの新しい学校を始めるということは我々にとって大いなる名誉でなければなりません。聖フランシス・ザビエルはキリスト教を通じて日本国民に幸福をもたらそうと欲しました。私共の目的も亦それと同じであります。私共はカトリックの世界観による一貫した教育を施すことによって私共の幸福を生徒に頒たんとするものであります。一体、生活の仕方がその国民によって異ることは誰しも認める所であります。アフリカ人の生活は中国人と違い、イタリア人のそれは日本人と同じでなく、又カナダ人の生活はメキシコ人のそれと異っております。然るにここに如何なる国民についても変らない所のものがあります。それは人間の魂であり、而して魂のある所必ず幸福に対する憧れがあるのであります。イギリスの詩人シエリーは「イスラムの謀叛」と題する詩の中で次のように詠つています。

「汝(いまし)は幸福(さち)を探し求むれど……あはれその日に……驕奢(おごり)にも黄金(こがね)にも名誉にもはた人に羨まるる権力の中にも汝は幸福を見出し得ず。如何にとなれば、おゝ古き因襲(しきたり)に甘んじて膝を折る奴隷達よ、苛酷に仕事を強うる女主人(めあるじ)よ、汝等の魂は已に他に売られたればなり」と。

多くの人が真の幸福を求めようとしながら幸福に対する考え方がまちがっていた為に幸福を見出し得なかったのです。彼等の唯一の野心は、官能の快楽を追い苦痛を避け未来の生活を考うることなく最大限に人生を愉しむことにありました。彼等は肉欲に身を任し、不滅なる魂を賦与された人間というよりもむしろ動物の如き行いをなしつつ、その心を生物の地獄の中に落し入れたのでありました。人間の精神は動物と異ってたゞ単に五感の働きを与えられているばかりでなく、何時かは満たさるべき高い心の願いを持っているものであります。幸福は道徳を実践する所に存し、又清純な良心の中にあるのであります。我々が動物の如き生活をすればする程、我々の幸福は横道にそれるのであります。神が人間を作り給うた時に神は人間に精神と肉体とを与えた。而もこの精神は物質でないが故に世俗的な快楽で満足せしめらるる筈がありません。人間は彼の中に彼の存在の理由を悟得してこそ人間なのであります。かくして人はその良心に忠実であればあるほどその家族とまたその国家に対して忠実となるのであります。今や世界には唯二つの人間の群れがあるのであって、その一つは神を信ずる人であり、他は神を信じない人々であります。この後者は神の存在を否定することに個人的な興味を有して居ります。何となれば、もし彼等が神についての考えを変えられるならば事実すべての道徳的義務も亦かえることができ、そしてまっしぐらに悪の世界に飛び込むことができるからであります。

さて私は皆様が吾々の教育方針に絶大なる信頼を寄せて居られることに感謝致します。そしてこの崇高な教育事業において吾々を援助するために、吾々の生徒の薫陶にあたる最も優秀な先生達を選抜致しました。かつてエマーソンも申しました「問題なのは我々が何を学ぶかということでなくして我々が誰とともに学ぶかということである」と。親愛なる生徒諸君、我々は生れながらにして学者ではありません。たゞ専らに勉強することによってのみ学問ある人になれるのです。ギリシアにこういう話があります。ユークリッドが幾何についての彼の新しい理論を王様に提出(献上)した時王様は彼に向ってこう言いました。「わしは王様だ。お前は更に新しい理論を発見してわしが物を学ぶために殊更に勉強をしなくてもよいようにせよ」と。そこでユークリッドは答えました。「王様よ、学問に王道はありませぬ。たとえ王様でも知識を増すためには苦労し努力し勉強しなければなりません」と。今日諸君がここにあるのは諸君の勉強を更に一段と進めんがためであり、その意味において私は諸君におめでとうと申し上げたい。諸君も気付いていることであるが、我々が一軒の家を作る場合先ず設計図を請負者に渡します。そして大工さんは各種類の柱や板を整えます。かくて一切のものが揃ったら建物の骨組をはじめやがて棟上げを祝います。一人の少年の一生についても同様であります。諸君は幼稚園、小学校及び中学校において或程度の知識を習得してきた、そして今や高校において再びその仕事を続け諸君の頭脳という建物を築き上げねばなりません。若し高校における学業がうまく行われるならば大学において最後の仕上げをするのが容易になるでありましょう。諸君はこの学校に先生のためにあるのではなくて諸君のために先生があるのであります。先生達は諸君の勉学を手助けするために最善を尽し、また始めは理解し難く思われる事柄を明らかにするでありましょう。他方諸君は先生方の努力に応えるように諸君の活動の歩調を合わせねばなりません。

諸君は諸君の帽子にラ・サール高校の徽章をつけて居りますが、それは同時に諸君の上に世界において高く位する聖ラ・サールの名声がかかっていることを意味するのであります。人々は諸君に注目を払っています。諸君の行動は諸君の今までの先生方や友達によって審さに批判されるであろう。若し諸君にして気高い行いがあればそれは自ずと級友を薫化するであろうが、その反対に、学生の名に値しない又人間としても遺憾な行動があるとすればその汚名はあたかも不吉な物体の影のように諸君と共に勉学している友達の善行をも無にすることになるのであります。

私はこの土地に参った時にこう言いました。「ベスト・アマング・ザ・ベスト」(この学校を最も良い学校の中の最も良い学校にしたい)と。このスローガンを堅持できるか否かは諸君の努力如何にあるのであります。この学校は全くすばらしい。校舎は新しく清潔である。更に先生は最良の方々である。周りの生徒は皆よい生徒である。然るに、その中に一人でも悪い生徒がいると想像できますか。それはたとえてみれば美しい着物の上についた汚い油のしみのようなものです。諸君は皆よい生徒達であるからそのような汚点となることはないでありましょう。私はカナダやアメリカの学生を誇りとするように又私のこの日本の学生達を誇りとしたいと思います。私は人々が次のように言う日の来るのを待望しましょう。「見てごらん、あれはラ・サールの生徒だよ。ほんとにキチンとしていて、礼儀正しく慎しみ深いではないか。この生徒こそ正真正銘のよい生徒にちがいない。我々はあんな生徒だったら日本の将来を任してもよい」と。
諸君の心に喜びを持ち、又学生として崇高な義務を果たすという決意を以て、この理想に向って邁進しようではありませんか。諸君が日本の名誉ある国民としてその一人一人の義務を果すその日の来るまで。

(井畔・猶野 翻訳)
ラ・サール学園開校式の写真|ラ・サール学園同窓会

井畔武明副校長の訓話昭和25年4月10日の開校式

井畔武明副校長の写真|ラ・サール学園同窓会生徒に対し私の希望を二、三申します。
第一に、この学校が建てられたについて、諸君は遠く聖バプチスト・ド・ラ・サール師の遺徳に感銘すべきは申すまでもありませんが、又直接には今日のラ・サール会の方々に感謝する心を失ってはなりません。ことにこの学校は、ラ・サール会員の懇請により、遠く海を超えてアメリカからカナダから多くの人々の愛の手がさしのべられて作られたものであることを忘れてはなりません。この学校は、彼の地の人達が一ドルずつ出し合って送ってくれた金で出来たと聞いています。その中には家計のあまり豊かでない人がその月々のサラリーから割いて出して下さった金さえ含まれていると聞いています。そういう見知らぬ遠い国の人達の愛の心によって出来たこの学校であります。諸君はゆめゆめその恩恵に狎るることがあってはなりません。否この恩恵に対し敬虔な感謝を捧ぐる心は必ずや諸君の日々の熱烈真摯な努力を促がさずにはおかないであろうことを確信します。

第二に、世往々にして、ラ・サール高校を貴族趣味の学校ではないかなどというのを耳にします。私はその如何なる意味で言っているのかよく分かりませんけれども、若しそれが精神的な意味において言われるのであるならば、寧ろ真の文化人は世俗的常識等に迎合せず高度の道徳的、知的操守を堅持するという意味において、この言葉を歓迎したいと思います。然るに若しもそれが外面的物的の意味でそう言われるのならば、それは軽薄な軟弱なハイカラ趣味を指すのであるからこれについては真剣な反省を加える必要があると思う。吾々は、ラ・サール高校生は精神的にはあくまでも高い心を持つことを期待します。而し物的にはあくまでも簡素な境地に安住するという所謂質実剛健の気象を失ってはならぬと思います。或人の言った 「生活は単純に、心は高く、真理への情熱を燃やし、学問に精進する」という言葉を諸君に送りたいと思います。

生として、その第一回の入学生として、世間の注目を浴びている。それと同時にやがてラ・サール高校に入ってくるであろう後輩に対して、諸君は立派な伝統を遺すべき責任を有して居ります。ここにおいて私は、真の伝統となるべき立派な校風を諸君自らの手によって築き上げよ、と強調したい。而もその校風たるや徒らに独りよがりの独専的なものでなく、若し他の学校にいい処があればこれを十分採り入れるだけの雅量をもって、而も誰から見ても肯べなわるるようなものでなければなりません。如何なる世間の批判にも耐え得るようなものでなければなりません。こうした謙虚な態度に住しながらも、尚且つ敢えて言うならば高山樗牛が「天才とは問題を提出する人である」といったように、新しい日本の高等学校の気風について、ラ・サール高校生こそ新しい問題を提出し、而してこれを解決するほどの気魄と誇りとを持ってほしいのであります。新奇をてらい、才を頼む如き軽薄はくれぐれも戒むべきであるけれども。

私の申したいことは以上の3つでありますが、飜って考うるに、諸君の一生涯においてこのラ・サールの三ヶ年は恐らくは生涯中最も意義の深い、思い出の多い、愉快な三年であろうと思います。古い高等学校の寮歌に、「三ヶ年は丘にたたずみて、けぶる下界を眺めやり、にごれる海を清めんと、深き思ひにつちかはん」とありますが、親愛なる生徒諸君、三年の間このラ・サールの小松原に佇みて、心ゆくまで深き思いに培い、身体をねり、そして将来、校長の言葉にあったように「この人ならば将来の日本を委せ得る」という人になることを心から望む次第であります。

ラ・サール学園周辺(1950年代)の写真|ラ・サール学園同窓会

ラ・サール高校開設の背景 七田和三郎吉野教会主任司祭

昭和25年4月、ラ・サール高校は開設された。その前の年、昭和24年といえば、聖フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸四百年祭という、記念すべき行事が行われた年である。国内からばかりでなく、国外からも多数の巡礼者が訪れた。
巡礼というのは、長崎、鹿児島、大分、福岡、京都、東京など、各地に立寄り、祈りの旅をつづけたのであった。戦後まもないときのことである。10ヵ国を代表する75人の外国巡礼団をうけいれるホテルが、まだ鹿児島にはなかったのである。仕方なしに鹿児島駅のホームに着いた特別列車が、ホテル代りに使われた。

巡礼団の行列は、鹿児島駅からザビエル教会まで、聖フランシスコザビエルの聖腕を奉持して進むのだが、その中には一般市民の参加もあった。長い沿道には、二重三重の人垣がつくられていた。
この国際的行事を、新聞は毎日のように大きく報道していた。日本の14都市を沸き立たせたこの祭典は、戦前戦後を通じて、未だ曽て経験できなかった盛儀であったのだ。聖フランシスコ・ザビエルこそ、西欧文化を日本に伝え、また、日本と日本人の善さを、西欧に紹介した最初の人であった。
四百年祭という、各地で展開された大祭典は、吉川英治が当時書いたことばを借りれば、聖フランシスコ・ザビエルが来日して、ちょうど四百年を迎えた今日、さらにもう一度、ザビエルは、日本の国土を訪れたのである。全国各地でくりひろげられるこの祭典は、精神的支柱を失い、混迷していた日本人の心の扉の前に立って、ザビエルは力強くノックしているのだと思う、という意味の文章を書いた。

鹿児島上陸四百年祭を、単なる祭典に終らせるのでなく、ザビエルの偉大な精神を継承し、鹿児島の地に、記念事業を考えたらどうか、という話しがもちあがった。
世界80ヵ国に、約一千の学校を経営し、教育のよき成果を挙げているラ・サール会に(当時日本における本部は仙台にあった)誘致運動を始めることになった。ラ・サール会は、多少の困難はあったけれども、私たちの切なる要望を受けいれ快諾してくれた。

草創時代

昭和24年、仙台からまずマルセル・クリシュ先生(故人)がおいでになり、開設の準備にとりかかった。私がザビエル教会の主任司祭であった関係上、事務局をザビエル教会の司祭館におくことになり、野田文彦先生(故人)を中心に、翌年の4月を開校の目標に、まず県内の優秀な先生をお招きすることに、懸命な努力が払われた。そのために、先生は連日連夜、多くの人を訪ね歩き、奪闘されたこと、また、その陰には、ラ・サールの顧問弁護士松村鉄男先生の適切なご助言とご協力をいただいたことを特記しなければならない。
教育の高い理想をかかげるとともに、それに協力してくださるすぐれた教師の陣容が整ったことは、そのスタートにおいてまず成功であったと思う。それはたしかに、神のお恵みであり、聖フランシスコ・ザビエルが、私どもが念願し、計画している聖なる教育事業を、天国から見守り、祝福してくださった、と固く信じている。
ラ・サール高校のユニーク性の一つは、県下の学校が男女共学であったのに対し、男子だけの教育を目指したということ、さらにもう一つは、多くの外人教師による外国語の習得という、県下においては例外的な、そして特殊な存在としてスタートしたことにあったと思う。

初代校長マルセル・プティ先生は、週に一度、全生徒を前にして、英語で訓話をなされた。高校3年にもなると、その英語が理解できたのであるから、そのことからしても、よき教師のもと、語学力が他に比して抜群であったことが、想像できるであろう。
昭和25年といえば、物資はまだ欠乏していた時代であった。しかし、そういう時代であっても、たとえば、生徒が傘とか、時計とかを学校に置き忘れることがあっても、ちゃんと持主にかえされたし、とにかく、校内に盗難事件が一つも起らなかったことを、私たち関係者は、すばらしい教育環境だと言って誇りに思ったものである。
谷山から電車に乗って家に帰るとき、始発だから大体座席が空いている。座席で本を読む生徒はあっても、がやがや騒いで人に迷惑をかける生徒はいない。乗客がだんだん混んできて、お年寄りや、赤ちゃんをおんぶしたお母さんがはいってくると、自ら立って席をゆずる生徒をよく見かけたものである。今でもおそらくそうであろう。

学校の創設時代は、市民の心も、自分の生活を守るのにせいいっぱいといったギスギスした時代であったから、それはまことに美しい光景であった。ラ・サールの教育はりっぱだとか、生徒のマナーがいいとか、という声をよく耳にしたものである。

期待するもの

ラ・サールは、今や有名校である。有名大学への進学率が高いということは、一般からも高く評価されている。
しかしながら、ここに見落してはいけないことがあると私は思う。ラ・サールの建学の理想は、人づくりであり、勉学とともに、真の人生観、世界観を確固たるものにし、世の光りとなりうる「人づくり」の教育でなければならぬということである。第一回の卒業式のとき、マルセル・プティ校長が、日本の将来は、諸君の双肩にかかっている、と喝破した訓辞は、まさしくラ・サールの教育の真髄を訴えようとしたものであった。
ラ・サール学園を巣立っていく諸君が「他者のために生きる」、そして、社会を豊かにするという、この人生の生きがいを、自分の「生きがい」とする確信をつかむとき、そのときこそ、ラ・サール・ボーイの誇りがあり、真価があると信じる。
次の聖ラ・サールのことばを引用して結びとしたい。

真の人間をつくるということ、ここに子どもたちの教育の終局と目的がある。残りの一切は、ただ、手段の役割りを演ずるにすぎない。
よき教師は、キリストの血を必要としなかった霊魂は一つもないということを、確信して、すべての生徒たちを例外なく救うために、心をつくさなければならない。
ラ・サール学園全景(1953年)|ラ・サール学園同窓会